昭和46年4月11日 特別奉修委員に対する親先生の御教話
                                               入力者 大坪けんいち

本当に心の上にも楽なおかげを頂きたい。仕事の上にも健康の上にも、経済の上にも人間関係の上にも楽なおかげを頂きたい。為には、お互いが言わんですむ信心。思わんですむ信心と言う風に信心が進んで行かにゃきゃいけないと思うですね。

( ? )、これほど信心するのにどうしてこのような事が起こってくるであろうかと思うたらもうその信心は止まっておると( ? )人が、「これほどしの信心をするのに、そうしておかげが受けられんだろうか?」と「どうしてこのような事が起こってくるで あろうか」と私思わにゃいけんという今日は御理解でしたね。

んーだからまぁこれほどしの信心というものを黙って見よったら「なるほどこれくらいの信心じゃこのくらいのおかげだなぁ」としか、と言うことが分かってくるというような、御理解だったですね。ですからそこからなるほどこれでは、んー今朝の御理解を聞いて頂きながら思ったことですけれども、こちらに参りましてはまぁまずないですね。

親子兄弟それが信心の話をしようと言ったようなことは、あのー本当にないです。
だからというほどしにおかげを頂いとるんじゃないかとこう思うんですね。
言わばまぁ言わんですむということですから。なら椛目の時代はどうかというと
もうこりゃもう毎日毎日があのまだ人が助かられる前なんかはもう毎日毎日が信心の共励でしたよ。私の方は・・・。

ね、もうそれこそ私はある時には、家内に親達に兄弟達に(?)ように。ある時には
ありがたいことを話し合って一家中でありがたい。ほんなこつもうイッチョ「信心ば進めにゃでけんの」っち言うごたる事一家中がそういう風なこりゃもう毎日でした。
んーですからあの(?)共励が必要じゃないでしょうかねまずそこんところの信心が。

そして言うならばもう言わんですむという信心。「んなら私も時々よってからお話したいなぁ」(?)みんなも少し行動しなきゃいけんなぁと思うんですけれども。
だから私そのことを思いよりますからね、だからその思わんですむほどしの信心だったらもっと素晴らしいことだろうと思いますね。

先ほど佐田さんのお母さんが体悪くしてから今度御本部参拝されるはずじゃったのが、あー息子さん、佐田さん達夫婦がお参りされる事になったわけですけれども。
お夢を頂かれましてね、んーまぁ例えば一つ一例をとると、んーあの庭非常に広くなってまぁ奇麗な石庭になっておるところだった。

それをあの( ? )達夫婦が一生懸命その事をなさっておられるのをお母さんが上から
見てから「これだけのことをすとに私に一言も言わんなら」っち言うてから自分が下りて行きよったっちゃげなりゃもーう、こう泥田んぼ汁のところに足突っ込んで動かれんごつなさったという。だからもう本当にこれほどしの事をその私は一口も言わんのにもうこれが一番つまらん。楽じゃないですね。

「もう神様は良いようにしかして下さらんのだ」という思いこみがでけたら言わんでいいです。ね、けれどもチラッと自分の心にそれをまぁ思い通りにいたしましてもです。ね、あのーそれが思わんですむ信心に(?)していったらいいわけでしょ。

先ほどあのー佐田さんのご主人の方が先生今日の御理解を頂きながら「これほどしの信心をるのにどうしておかげが受けられんじゃろうか」という御理解でしたけれど、私は今日の御理解を頂きながら「本当っとこれほどしの信心しかでけんのにこのようなおかげを頂いてという実感で頂きました。」っちいう。「いやーほんなこて(本当に)今日のご理解は、私ことにあてはまらじゃったね」ち言うところでした。

それは皆がよう言うことですよ。「もう本当信心もできんのにこげなおかげ頂いて」って。けれども実際私が見てからいっちょん(全然)おかげ頂いておらんです。ね。まぁーだ そげなつはそんくらいの事じゃなか。ただ佐田さんの所の場合はですね、やっぱおかげ頂いちゃるです。うん。(    ?    )です。ね。

まぁおかげ頂いて行きよるその過程にあるです。ね、けれども「本当に信心もでけんのにこんなおかげを頂いて」ということは、あーそのありがたい事ですけれども、「いやいやまぁだまぁだおかげあんた方頂かんの」と、あのー言いたいところならそげなんところばってん。やはりこれで良いっち言うことはない。

願いというものが大きゅうなりゃ(大きくなれば)なら、もっともっと本当の信心にならせて頂いておかげを受けて行かなきゃいけんと言うこと。ならそこのところの過程をです。なら私は思わんですむ信心のところまでここを焦点にしたらまぁーだまぁーだずいぶんと言うことじゃないだろうかとこう思ういますね。  

私どもがもう本当に日々親子兄弟信心の話し共励で、えーもう持ちきっておりました。信心の話で、話をするっち言うならもう信心の話(?)と。まぁそのくらいにまぁ今を( ? )ということがいりますうがね。そういうなら時代から、今最近なんかこちらへ来てからまず、家族よって信心話することがないです。ね、ということはもう言わんですむおかげを頂いておるなということを感じるんですね。

というてなら思わんことは無い。もうちったぁ(もうちょっと)「ここんにきは(ここは)向上せにゃいかん。あそこんにきんとはあげんとこは改まらにゃいかん」とまぁお互いが築いたり思うたりすることですけれども、けどその思わんですむほおどしの信心を おかげを頂いた時が本当のことだと思うんですけどね。

だからもうそういうところに焦点を置いたら信心はまだまだ切りが無い。限りが無いほどですよね。どうぞ一つ皆さんこりゃ佐田さんの場合なんかは確かに一家でもう子供たちを交えていつも信心の共励があっておる状態を聞きますしね。なるほど、んー歳は年寄りなりに、えーご夫婦はご夫婦なりに子供達は子供達なりに信心が分かっていきよる進んで行きよる気がいたしますと同時に信心の(    ?    )ね。

だから佐田さんにして言われるように「本当にこの子には信心しかでけんのに(出来きないのに)」っち言うけれどもそのような信心がでけておるのにこんなおかげを頂いてとここにいうておられます。ですからまぁちょっとした、まぁ私の見本、手本というならねそのちょっとまぁ下の手本だと思いますね佐田さんのところの場合なんかは。

あともう一つ、やっぱり一つのああいう一つのおーなんち言うですか白熱した信心というかね、しかも(?)からもう子を揃うてね信心に立ち上がっていかれる信心。そしてお互いが言うなら神様に次の信心を夢の中でも求めておられる。もうほんに(本当に)私は一口も、一口ぐらい言うたっちゃよかろうと言うような思い心をおばーちゃんが「ほんなコツのぅ楽になる為にはそげなこつを本当より良いにしかならんとじゃけんそげなこつ言うことはいらんとたいの」と言う風に改まって行かれるようなね、お育てを頂いておられる訳です。

まぁそこに取り組んでそこにそれが自分のものになることだけでも大した事ですけれども、本当に絶えまざる信心の稽古が必要ですね。